カンボジア|元派遣社員が世界の子どもたちに映画を届ける理由とは!?教来石小織さんにロングインタビュー[前編]

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(左:弊社株式会社BeGlobal代表今啓亮 右:教来石小織さん)

今回アジアマガジン編集部では、カンボジアを中心に海外の子供達に映画を届けるプロジェクトを実施されているNPO法人CATiC代表の教来石小織さんへの取材を実施しました。弊社BeGlobal代表の今とはカンボジアでの会っていたとのことで、対談形式でお届けしたいと思います。前編と後編合わせて、なんと8500字以上の独占ロングインタビューとなります。ぜひお楽しみ下さいませ!

教来石小織(きょうらいせきさおり)さん
プロフィール(以下、教)

1981年生まれ。World Theater Project(ワールドシアタープロジェクト)を運営するNPO法人CATiC(キャティック)代表。日本大学芸術学部映画学科卒業。2012年よりカンボジア農村部の学校の教室や村の広場を即席の映画館に変える活動を開始。2015年2月、日本武道館で開催された「みんなの夢AWARD5」にて優勝。著書に『ゆめのはいたつにん』。

インタビュアー 株式会社BeGlobal 今 啓亮
プロフィール(以下、今)

北海道出身。北海道大学教育学部卒。教育大国フィンランドに1年間交換留学後、東京のベンチャー企業で3年間勤務。2013年にカンボジアの首都プノンペンでの挑戦を開始し、カンボジアにて人材紹介会社を創業。2013年3月から2015年3月までの2年間で社員30名の月間売上最大規模の人材紹介会社に成長。現在はCEOを退任し引き継ぎ済み。2015年4月からは日本(東京)に帰国し、アジア全域を対象とした日本人採用支援/転職支援を実施。2015年10月に株式会社BeGlobalを設立。アジアダイレクトアジアマガジンを運営中。

では、対談スタートですー!

(今)僕自身はカンボジアで何度もお会いしておりますが、初めての方に向けてどんなことをされている方か、改めて自己紹介を頂けますでしょうか?

(教)自己紹介……えー、教来石小織(きょうらいせき さおり)と申します。日本に20人くらいしかいない滅びゆく苗字です(笑) 1981年生まれ。O型。好きな食べ物は焼きそばに潜んでいるイカ。カンボジアの、主に農村部に暮らす子どもたちを対象に映画上映会を開いています。上映機材とスクリーン、発電機などを持ち込んで、学校の教室や村の広場を即席の映画館に変えるWorld Theater Project(旧名:カンボジアに映画館をつくろう!)というプロジェクトです。

(今)活動を始められたのは2012年ということですが、そもそも始めたきっかけというのは?

(教)子どもの頃から映画が好きで、映画からいろんな夢をもらってきました。小学6年生の時に「将来は夢を贈る側の映画監督になりたい」と思い、大学では映画を専攻。大学三年生の時に、大学に提出するドキュメンタリーを撮るためケニアの村にホームステイしました。村の子どもたちと話をしていた時に、彼らの夢の選択肢が少ないことに気づきました。

「もしもこの村に映画館があったら、子どもたちはどんな夢を描くのだろう」と思い、「いつか途上国に映画館をつくりたい」という夢を持ちました。でも当時はその夢に対し、何か行動を起こすことはありませんでした。映画監督の夢には挫折して、卒業後は脚本家を目指しつつ、派遣社員の事務員になりました。

脚本のコンクールには落ち続け、会社と料理と洗濯を繰り返す日常の中で、「途上国に映画館をつくる」夢のことなんて忘れて過ごしていました。10年ほど経った2012年の夏、仕事中にふと「カンボジアに映画館を作りたい!」と思い立ち、現在に至ります。

(今)急な展開ですね(笑)!ふと仕事中に思いついたんですか?

(教) はい。当時いろいろあって病んでいたからだと思います(笑)。死ぬかどうするかみたいな状態の時だったので、天命みたいなものが舞い降りてきたのかなと。しばらくして、これは10年前と同じ夢だと気付きました。

―初めてのカンボジアでいきなり映画上映―

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(今)よく聞かれると思うのですが、 なぜカンボジアだったんでしょう?

(教)かつてカンボジアには、東南アジア一と言われるくらいの映画黄金期がありました。フランスの植民地時代に映画文化が入ってきてから15年の間に、約400本の映画が制作されたと言います。けれども1973年、内戦の影響で映画館は閉鎖されました。

1973年といえば、世界ではブルース・リーの『燃えよドラゴン』が公開され、日本では『ブラック・ジャック』や『はだしのゲン』の連載が始まった年です。子どもたちが映画や漫画の影響を受けて、ブルース・リーの真似をしたり、ブラック・ジャックのようなお医者さんに憧れたり、ゲンを読んで戦争の恐ろしさを感じたであろう頃、カンボジア人たちは娯楽や情報を奪われ、恐ろしい時代に突入していったのです。

1975年から始まったポル・ポト政権下では、農村で映画が上映されました。でも上映されていた映画は、ポル・ポトを称えるもの。カンボジア人の映画監督、リティ・パニュ氏の『消えた画 クメール・ルージュの真実』の中で農村での映画上映のシーンを観た時、一口に映画上映と言っても、どんな作品を上映するかによってその意義が変わってくるのだなと思いました。私たちは現在、子どもたちが楽しんで観ることができる前提のもと、夢の選択肢が広がったり、目標に向かって努力する大切さが伝わるような映画を選び、現地の言葉に吹き替えて上映しています。

内戦も終わり、経済成長したカンボジアには、現在18の映画館があります(2014年ユネスコ調べ)。ここ数年の間に、プノンペンのイオンモールの中や、シェムリアップにも大きくて綺麗な映画館ができました。ですが映画館があるのは都市部だけで、農村部にはありません。

……などなどの情報は、活動を始めていくうちにわかったことでして、思い立った時はカンボジアに行ったこともなかったので、「可哀想な国」というイメージしかありませんでした。なので、「なぜカンボジアだったか」と聞かれたら、「直感です」というのが正しい答えです。

(今)なるほど(笑)。「カンボジアに映画館を作りたい」と思ってから実際にカンボジアに行ってみるまで、どのくらい準備期間があったんですか?

(教)4〜5か月ですね。最初はカンボジアに行ったことがないので、現地に映画のニーズがあるかどうか確認するために、下見だけしに行こうと思っていました。そしたら、最初の仲間になってくれた男の子が、「最初から上映しちゃえばいいんじゃないですか?プロジェクターとスクリーン持っていって」と言ってくれたんです。

(今)彼のセリフが決め手だったんですね。カンボジアに行こうと決めてから、一番最初にしたことって何でしょう?

(教)行く日程を決めて、飛行機のチケットを買って逃げ道をなくし、自分を追い詰めることでした。チケットを買ったのはいいけれど、カンボジアに何の縁もないので、どこで上映したらいいのかもわからず。道端でゲリラ上映をしようかと考えて、「危ないからやめた方がいい」とご注意いただいたこともありました。

縁がないなら作ろうと、「カンボジア」と名のつく様々なイベントに顔を出しました。私は本来、人が多いところに行くことや、人とコミュニケーションを取るのが苦手なんです。できれば一日中家に引きこもって、炬燵でミカンを食べていたいタイプです。なので今思うと、あの頃は何かに憑りつかれたようなアクティブさを発揮していましたね(笑)。その上行った先々で、「私カンボジアに映画館をつくりたくて」と話していきました。初対面で突然夢を語り出す女。そして動きが挙動不審。相手の皆様からしてみれば、相当気持ち悪い人だったと思います。

(今)でも夢を人に話すって大事ですよね。話していったら道が拓けた?

(教)拓けました。現在は「即席の映画館」というスタイルに落ち着きましたが、当時は本物の「映画館」を建設しようとしていました。

カンボジアに廃校があるとネットで読んで、それなら廃校を映画館に改造できないかなと思っていた時に、「認定NPO法人かものはしプロジェクト」の共同代表、本木恵介さんから「最初は日本語学校で上映するのがいいんじゃないかな」というアドバイスをいただきました。

そのまま本木さんが現地インターン生の男の子につなげてくださり、そこから一二三日本語学校の鬼一二三先生につなげていただき、上映できることになったのです。もう一つ、日本の素敵な団体が建設されたスロラニュ小学校でも上映できることになりました。上映地が二カ所確保できた状態で、カンボジアへ行けることになったのです。その最初の二校がきっかけで、その後も学校を中心に上映をしていくようになりました。

―カンボジアで映画配達人を生み出す―

(今)僕がカンボジアでお会いした時って、「何回か上映しました」くらいの時だったと思うんですけど。あの時から変化したことってありますか?

(教)今さんにお会いした頃は、日本から日本人スタッフが休みを利用してカンボジアに渡航し、数カ所回って上映をしていました。そのため届けられる数には限りがありました。でも2015年10月から、現地にカンボジア人の「映画配達人」が生まれまして、現在では週3ペースで各地の子どもたちに映画を届けられるようになりました。

(今)すごいですね!いったい何があったのでしょう?

(教)現在副代表を務めている山下龍彦(やましたたつひこ)の存在と行動力が大きいですね。山下龍彦、あだ名は「フライパン」と言います。由来は割愛します(笑)。彼は上智大学で教育を学んでいる学生で、フットワークが軽くて愛されキャラ。高校にも野球推薦で入るくらいの野球少年だったのですが、高校1年生で野球に挫折して、高校も退学したそうです。野球しかやってこなかったので、やりたいことも見つからず引きこもっていた時に、『ホテル・ルワンダ』という映画を観て国際協力に興味を持ったとのこと。そこから勉強して大学に合格。集中力と粘り強さがある青年です。

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(フライパンこと山下龍彦さん)

そんな彼が、2015年の夏に「俺、大学を休学してカンボジアに駐在します」と言い出した時にはビックリしました。いつか資金が集まったら私自身がカンボジアへ……とは思っていたのですが、力不足でいつまで経ってもそんな時が来なくて。ちなみにですが私、蚊のアレルギーみたいなのがありまして。カンボジアではいつも異様に蚊に怯えながら過ごしているんです…。いつも蚊避け装置(?)を腕につけているのですが、一度失くしたことがあって。そうしたら早速どんどん刺され始めて。気が狂いかけました(笑)。母に連絡して日本から同じ商品を発送してもらった時、周りは引いていましたね……。

だからフライパンが現れなければ、うちはいつまでも「映画配達人を現地に定着させる」という目標を実現できなかったのだと思います。

― 映画配達人の仕事は楽しい ―

(今)フライパンさんの目標は、バッタンバン州、シェムリアップ州、プノンペンの三カ所で「映画配達人」の拠点を作ることだと伺いました。最初に日本人が多いプノンペンやシェムリアップではなく、バッタンバン州から始めたのはなぜでしょう?

(教)2016年7月に岩波ホールで公開される『シアター・プノンペン』を製作した女性映画監督、ソト・クォリカーさんの紹介で、「元映写技師の方がバッタンバン州にいて、今は別の仕事をしているけれど、映画を届ける仕事なら喜んでやってくれるだろう」と連絡をいただいたのです。プノンペンにある「ボパナ視聴覚リソースセンター」に当時勤務されていた鈴木伸和さん経由でのご紹介でした。

フライパンはまだ会ってもいないのに、その元映写技師の方と映画事業を進めようと決めていました。どうやって「映画配達人」を広めていくかが描かれているフライパンのスケッチブックを見つけた時、「このプロジェクトについて私より考えている人が現れた!」と感動すると同時に、「フライパンには敵わないかもしれない」と思いました。

(今)教来石さんのビジョンを実現してくれる存在がフライパンさんだったんですね。

(教)はい。ビジョン以上です。フライパンは頭で考えるだけでなく、行動し、逆境を乗り越え、成果を出せる人でした。2015年10月に、二人でプノンペンからバスに揺られてバッタンバン州に行って、朝8時に元映写技師のサロンさんにお会いしました。小柄で優しそうな61才の男性でした。サロンさんはクメール語しか話せず、フライパンも英語と片言のクメール語しか話せなかったので、ソト・クォリカーさんが派遣してくださった通訳さんが現れるまで、フライパンとサロンさんは煙草で間をもたせたりしていました。

そんな光景だけ見て私は帰国したのですが、フライパンはそこからわずか三か月の間にクメール語で日常会話ができるまでに成長していました。そしてサロンさんの他に、エン・サロンさん、その息子のロン君らを映画配達人として採用しました。今ではもう、フライパンがいなくても、彼らだけで映画上映できるようになっています。上映を希望する学校に連絡し、上映の様子をFacebookにアップして、観客数と上映場所を報告するところまでやってくれています。

フライパンが、カンボジア人スタッフたちととことん向き合って、家族問題も根気良く解決したりしたからこその成果でした。2015年12月に再びバッタンバン州を訪れた時、映画配達人たちがフライパンを心から信頼しているのが見てわかりました。

(今)フライパンさんすごいですね。ところで、エン・サロンさんという方は何でつながった方ですか?

(教)通りすがりのトゥクトゥクドライバーでした(笑)。英語が話せるので、サロンさんとフライパンの通訳になっているうちに、気付けば元映写技師のサロンさんを押しのけて(笑)、彼が一番やる気のある映画配達人になっていたんです。

彼の人生はなかなか波乱万丈でした。エピソードを公開して良いと本人から許可をもらっているのでお話しますと、彼は右の手足にハンディキャップがありまして。3歳の時に病気になって、でも内戦で薬が変えずに、不自由さを抱えたまま生きることになったそうです。バイクタクシーの仕事をした時に、あいつは足が悪いからあいつのバイクに乗るのは危険だと、同僚やお客さんから言われるようになりました。仕方なく足の悪さが目立たない夜にだけ客引きをするようになったそうです。でも夜は治安が悪くて、銃で脅されることが何度もあったとか。「タイに行けば仕事がある」と言われて、どんな仕事か聞くと、「物乞いだ。手足の悪いおまえならピッタリだ」と言われたそうです。

彼は生きるのがつらくなり、自殺未遂をしたそうです。でも周りの助けで一命を取り留めて。そこから周りに感謝して、英語の勉強をして、トゥクトゥクドライバーになって、結婚もして、子どもも二人生まれたと語っていました。

そんな彼は「映画配達人の仕事が楽しい」と言ってくれています。子どもたちの喜んでいる姿を直に見ることができるので、やり甲斐を感じられるのかもしれません。手際良く準備をして、子どもたちに得意気に映画の説明をしています。

フライパン曰く、トゥクトゥクドライバーはあまり地位が高い職業ではなく、それを彼らもわかっている。でも映画配達人だと、学校の先生とも対等に話せるなど、誇れる仕事のようなのです。

⇒後編はコチラです!元派遣社員が世界の子どもたちに映画を届ける理由とは!?教来石小織さんにロングインタビュー[後編]

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